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林檎

 

 

中央本線松本行きのボックス席

青い座席の上に

ひとつの林檎がいた

 

 おひとりですか?

 

そうたずねているかすれた声の主は

一枚の栞で

向かいの席から林檎に話しかけているのだ

林檎はだまっている

 

 わたくしはね、途中だから必要なのです

 なにかの途中の時だけ必要になるのです

 

自慢とも不満とも

区別のつかない面持ちで

唐突に栞は言った

 

私は通路をはさんだ隣の席で

小説を読むふりをして様子をうかがっていた

 

栞は、興奮ぎみに話しつづけている

紙の抑圧からのがれた自由に

あるいは肌寒さに

とまどっていたのかもしれない

 

 Aと非Aの間に立つポールとでも申しましょうか

 そして時期がくれば移動するのです

 少しずつ、時には一気に、

 

私は甲府駅で降りるため席を立った

林檎に目をやると

すこし困ったような顔でこちらを見返してきた

 

その後の会話がどうなったのか 

今でもすこし気になっている

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